先日中学生に中島敦「山月記」を紹介しました。
中学生に全てを語るには少々難しい内容なのですが、個人的に好きなので。
この小説に登場する李徴(りちょう)は虎に姿を変えてしまった人物として描かれます。
なぜ虎になってしまったのか?
李徴は自分の性情が原因であると語ります。
では李徴の性情とは何か?
ここであの有名な
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」というフレーズが登場します。
李徴は詩人として名を残そうとしたにもかかわらず、プライドが高く他者に傷つけられることを恐れ、師事や交友をしませんでした。
また、自分の自信を保つために人々に横柄な態度をとってしまいます。
「己の珠に非ざることを恐れるがゆえに、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することもできなかった」
(自分に才能がないことを恐れて努力せず、自分に才能があると半ば信じていたために平凡な人生をおくることもできなかった)
李徴のプライドの高さ、そして謙虚ではない姿勢。それが内なる性情=猛獣を肥え太らせる結果となり、結果として虎になってしまったというのです。
李徴はまた、
「人は誰でも猛獣使い」であると述べます。
これが山月記が読まれ続けられる理由だと思うのですが、人には誰でも李徴と同じような感情があるものです。
すなわち、才能のない自分自身を認めたくないという現実逃避、人とは違う特別な人生を歩みたい、そのような才能が眠っているはずだというある種の希望。
誰でもそのような思いを持っている、つまり、自身のうちにも猛獣がいることを指摘されるされることで我々はドキリとしてしまう訳です。
これは大人だからという話ではありません。
中学生だって、同じような思いを持っています。
テストは点数でその人を評価します。
そこで、その点数を謙虚に受け止めることができるかどうか。
「うっかりミスは気を付ければ○だったから…」
その気を付けるということが本番のテストでできなかったんでしょ?
「これは本気じゃなかったから…」
テストで本気が出せないってどういうこと?
現実世界で虎に姿が変わってしまうことはありませんが、言い訳ばかりでは成長もできません。
もうすぐ夏休み、テストの結果を謙虚に受け止め、
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